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「アルチザン」を目指した作編曲家、服部克久氏 逝く

(2020/06/16)




 作編曲家の服部克久氏が6月11日午前8時42分に末期腎不全のために死去した。83歳だった。12日に服部氏の所属事務所が発表した。
 作曲家、アレンジャーとしての活動にとどまらず、様々なジャンルの音楽監督やプロデューサー、音楽祭の理事や審査員、さらにはコメンテーターとしてテレビ出演するなど枠にとらわれない活動で注目を浴びてきた服部氏。オリコンの媒体にも幾度となくご登場いただいている。ここでは、「音楽生活40周年」(オリジナルコンフィデンス/1999年11月1日号)、「音楽生活50周年」(ORICON BiZ/2009年11月9日号)の節目に行ったインタビューより、氏の言を借りながら、音楽人生を振り返る。



幼少期〜仏パリ国立高等音楽院(コンセルヴァトワール)留学

 服部氏は1936年11月1日、東京都生まれ。国民栄誉賞を受賞した作曲家・服部良一の長男として生まれた。幼少時から当然のように音楽の英才教育を受けて育った。

「5歳か6歳の頃、自分がピアノを習い始めたときに曲らしきものを弾いたのが僕にとっての原体験になっているんじゃないでしょうか。(中略)自分で(音楽家に)「なろう」というふうにも思わなかったな…。というか「なるのが当たり前」というのは変だけれど、空気があるように当然のことでしたよね。“家業”という感じで(笑)」

「僕の持論なんですが、音楽家になるための要素として大事なのは“環境”だと思うんです。“環境”によってその人間の大脳が音楽的思考をするようになるんですね。それがないと、音楽を職業にするというのは、やはりなかなか難しいかなと思います」


 成蹊学園高等学校時代、服部氏が師事していた東京藝術大学の池内友次郎教授の勧めにより高校卒業後、仏パリ国立高等音楽院(コンセルヴァトワール)作曲科に留学する。

「私費留学だったんですが、外貨持ち出し許可の試験が大蔵省であって…。なにか国を背負って、という感覚でね。僕はのんびりしていたんですが、周りの人はみんな目をつり上げて大変でしたよ。試験に合格したら、その後はもう今生の別れという感じでしたし。向こうについても日本人なんて、今みたいにたくさんいませんでしたしね」

テレビ創成期、プロとしての第一歩を踏み出す

 3年間の勉学を経て、58年に同音楽院を修了。帰国早々に学生時代の1年先輩、バンド仲間だった日本テレビの斉藤太朗氏に依頼され、当時人気絶頂のダークダックスをフィーチャーしたテレビ番組『サンデーダーク』のアレンジャーとして、プロとしての第一歩を踏み出すこととなる。59年1月のことだった。以降、日本テレビ系『ハニータイム』、フジテレビ系『ミュージックフェア』など、テレビやラジオ、映画などへ活躍の場を広げていく。

「帰国して大学の先生の職がいくつか用意してありましたが、それをお断りしたんです。(中略)学生時代はジャズバンドをやっていたりしていましたから、ポップス・ジャズは血になっていましたが、クラシックは勉強の手段と考えていたんです。最近になってこそちょっと興味が出てきましたが、現代音楽の作曲をするつもりなんて最初からありませんでしたし」

「(当時は)浅丘雪路さん、水谷良江さん、ペギー葉山さん、江利チエミさんの全盛期ですね。週に3本くらい撮りがあって、毎日毎日10曲くらい書いていました。若いからへっちゃらでやっていましたけれど、振り返ると無茶をしていましたね」


 61年からは3年間、日本ビクターの専属作曲家を経験し、64年の「東京オリンピック」では、前田憲男氏、中村八大氏、山本直純氏らと共に、体操競技や開閉会式の音楽を担当。その6年後の70年には、国際博覧会『大阪万博』では、「ガス・パビリオン」において、巨匠ジョアン・ミロの大壁面・オブジェに音楽を作曲する。

「アレンジャーというのは音を使った演出家ですよね。ですから、わりと大所高所からものを見ることができるというか。例えば日劇のショーなどで、演出家と打合せをしながら、こうしたらいいんじゃないか、だったらこうしよう、というようなことをやっているうちに必然的に演出っぽいことをだんだんと覚えていったんですね。それで、大阪万博のガス館のミロのオブジェとか壁画に合わせて館で流す音楽を“笑い”というタイトルで、当時珍しかったシンセサイザーを使ったりしながら作り上げたんです。それをミロ本人が気に入ってくれて、バルセロナのエキスポで使わせてくれって話になったりして、評判になったんですね」

「専属作曲家時代は、なによりメロディーを作らなければならないことが苦痛だったわけです。メロディーというものは僕にとっては1つのツールであって、それが目的じゃないんですね。メロディーがあって、それを包み込むサウンドがあって、ビートもあって、全体の雰囲気で1つの立体的な塊を作りたいと考えている。(中略)僕のサウンド全体を聴いて欲しくて、それを聴いた人が、どう聴いて、どう感じるのか、ということに興味がありましたよね」




ライフワーク、インストゥルメンタル集「音楽畑」シリーズ開始

 71年には「花のメルヘン」(歌:ダークダックス)で『第13回日本レコード大賞』編曲賞を受賞。78年スタートのTBS系『ザ・ベストテン』のテーマ曲なども手がけた。80年に入ると、谷村新司の「昴」「群青」や、竹内まりやの「シングル・アゲイン」、柏原芳恵「春なのに」、少年隊「ふたり」、さだまさし「驛 舎」など、ヒット曲の編曲を数多く手がけた。服部氏と親交の深い山下達郎氏は14日に放送された自身のFM番組の中で服部氏を偲び「最高峰の編曲技術を持った方。特に竹内まりやの「駅」は服部さんの編曲抜きでは語れない」と語っている。

 また、83年には「音楽の自然食」をテーマにした、インストゥルメンタル集「音楽畑」シリーズをスタート。「ル・ローヌ」「カシュガル・夢街道」「自由の大地」(TBS系『新世界紀行』テーマ)など、数々の名曲は同シリーズに収められている(現時点で22作)。アルバム発表後は収録曲の発表を兼ねたコンサートが、音楽活動の軸の1つとなっていった。オーケストラサウンドを徹底的に追求した同シリーズは、1つのジャンルとして確立され、日本レコード大賞企画賞を2回受賞している。

「83年に『音楽畑』の1作目を始めたときには、だんだん世の中全体がそういうサウンドという感覚を受け入れてくれるようになってきていたんですね。(中略)その当時、小学生に『音楽畑』を聴かせて感想文を書かせた先生がいらっしゃって、それを読ませていただいたことがあるんですが、「なんかいい気持になりました」とか「森の中を歩いている感じです」とか、非常に抽象的なものが多かったんですね。その受け取られ方が一番嬉しかったなあ。(中略)やっと自分のものができたかな、という感覚がありましたよね」

「『音楽畑』の人気の秘訣は自分では分かりませんが、強いて挙げれば、なんとなく聴いても成立するし、スピーカーの前でじっくり聴いても勝負できる、そういう自信はありますね。芯をとらえたイージーリスニングでしょうか。ヒーリングの先駆けと言われることもありますが、結果的にそうなったのであって、誰かを癒そうと考えて曲は作ってはいません」

 93年には日本人による最高のアレンジと日本人による最高のサウンドを求めて、第一線で活躍中のスタジオミュージシャンに呼びかけ、国内唯一となる「東京ポップスオーケストラ」を結成。前出の「音楽畑コンサート」とともに、上質な音楽を国内外に届けてきた。94年には日本作編曲家協会会長に就任。99年に著作権法百年記念特別功労者として文部大臣表彰を受けている。

生涯現役、作編曲家のアルチザン

 2000年代に入ると、07年には、「服部良一生誕100周年記念コンサート」を東京国際フォーラムにて開催。『服部良一〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム』を息子の服部隆之氏とともにプロデュース。親子三代続く音楽一家の絆を強く印象づけた。
 09年から13年にかけては、第6代日本作曲家協会会長を務め、17年10月には、“80歳からの新たなスタート”として、「服部克久 傘寿の音楽会」を昭和女子大学人見記念講堂で開催。昨年9月には、音楽家生活60周年を記念して、22作目となるオリジナル・アルバム『音楽畑 22 -The Final?-』をリリースするなど、80歳を超えてなお、現役であり続けた。

 99年のインタビューで、「名刺には肩書きは何も書いてない」という服部氏は、「どうしても肩書きを自分で選べというのなら、やはり“作編曲家”でしょうかね。本当は「アルチザン(職人)」という言葉が一番好きですね。究極のアルチザンには、芸術を感じることもあるじゃないですか。いつかそういうものになりたいと目指してきたのは確かです」と語っている。
 生涯に手がけた作編曲数は6万曲を超えるという。その作品群はジャンルレス。作編曲家のアルチザンの歩みは、そのまま日本音楽界の発展と重なる。

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